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東映京都撮影所の編集室にて

今回ご登場いただくのは、1992年に東映京都撮影所に入所し、
『遠山の金さん』『暴れん坊将軍』といった時代劇から、
『新・仁義なき戦い』のようなアクション映画、
そして、『科捜研の女』などの現代劇まで、
多様な作品の編集を手がけてきた編集技師・米田武朗さんです。

膨大なカットからなる映像を、どのタイミングでどうつなぎ、
どこを捨てるのか。観客に最も近い立場で、
撮られた映像を作品へと仕上げていく編集の仕事は、
それ次第で出来を大きく左右する影響力を持っているように思います。

「編集は、全映画的教養を試されている気がする」と語る米田さん。
その醍醐味や、映画づくりの最後を担う責任について、
また、東映京都撮影所で編集を続ける想いなど、さまざまに語っていただきました。
最後までどうぞお楽しみください。

米田武朗さんプロフィール

──

 今日はお時間をいただき、ありがとうございます。
「撮影所の人々」ではこれまでに11人の映画人のお話を聞いてきましたが、
いよいよ「編集」という仕上げのパートのお話ということで、
楽しみにしておりました。
まず、この部屋、入ってちょっと驚きました。

米田さん

あ、そう?

──

だって、ほかの部署は、小道具倉庫の片隅に机があったり、
そもそも個人の机がなかったりしたのに、ここは大変きれいな個室なので。

米田さん

あ、そこですか。
そうだよねえ、なんだか悪い気がするよね(笑)

──

いや、現場に行かず、部屋にこもってする作業が多いからでしょうね。
そして、机の上にはパソコンとモニターが。

米田さん

そう。もういまは、コンピューター編集ばっかりだね。
僕が入ったときはフィルム編集ばっかりだったけど、


編集室を引いて眺めると、このような感じだ

──

米田さんが撮影所に来られたのは92年ですよね。

米田さん

はい。その頃はまだ、テレビ時代劇はビデオじゃなくフィルムで撮っていたし、
編集もフィルムが主だったんですよ。
ちょうど、テレビ時代劇のレギュラーものがバンバン回っている頃で、
『遠山の金さん』、『三匹が斬る』、『銭形平次』、『大岡越前』、
それから『水戸黄門』、『暴れん坊将軍』、『将軍家光忍び旅』。

──

すごい数ですね。

米田さん

毎週、テレビ朝日が2本、フジテレビが1本、TBSが1本。
あとは年末スペシャルなどが入ってきていたからねえ。

──

どういう経緯で撮影所に入られたんでしょうか?

米田さん

経緯はね、僕は大阪芸術大学映像学科出身なので。

──

ああ、中島貞夫監督が教授を務めていらっしゃった。

米田さん

そう。中島監督には、僕が書いた脚本を読んでもらったり、
いろいろとかわいがっていただき、恵まれた環境でした。
だけど、卒業してすぐにはこの業界に入らず、
しばらく広告代理店で働いていたんですよ。

──

え?そうなんですか。

米田さん

うん。せっかく大学を出たのなら、いったん世の中に出てみようかと。
当時はバブルだったから新卒採用してくれる会社が多かったし、
中島監督も「いろいろやってみい」っておっしゃるんでね。。

──

映像学科だけど、ガチで「映画!」というわけではなかったんですね。

米田さん

そう。俺、「子どもの頃から映画が好きで」みたいな体験はあまりない。
そんなに映画マニアじゃないから(笑)
映像学科に入ったのも、絵や音楽が好きだったから、
「そのどちらの要素も含んだ映像って、おもしろいんちゃうかなあ」
となんとなく思って入ったくらいの感覚で。

ただ、大学に入ったら、けっこう真面目に勉強したよ。
芸大のライブラリに通って、世界の名画を片っ端から観た。
もちろん邦画も、溝口健二、黒澤明、小津安二郎・・・ひたすら観たね。
いま思うとあれは非常に財産になってる。

──

それで、卒業したら広告代理店に入って。

米田さん

そう。で、入ったら、景気もよかったし、 入社後3ヶ月目で夏のボーナスをもらったりして、 「うひゃー!」ってなるやん(笑) 毎日、求人広告から雑誌、イベント、チラシ、いろいろなものを作って、 楽しかったし、営業成績もよかったんや。

──

へえ。サラリーマン生活から映像業界に戻ってくるきっかけは?

米田さん

きっかけというか、「映像の仕事をしたい」という気持ちは
やっぱり心のどこかに抱えていたよね。
でも、代理店の仕事もやりがいはあるし楽しいし・・・
と思いながら数年過ごしていたんです。

大きな引き金になったのは、ぶらりと入った映画館でたまたま、
『女帝 春日局』を観たんです。
中島貞夫監督、十朱幸代主演、東映京都撮影所で撮られた、あの映画。

それを観たときに、
「俺の知ってる中島監督が、すぐそばの京都で、
こんなすごい映画を作ってるんやなあ!」
と思ったわけ。
「やっぱり俺、どんな仕事でもええから、こっちの(映像の)世界に入りたい」と。

──

そうなんですね。中島監督作品だったというのが運命的ですね。

米田さん

中島さんの作品だったから余計に
「あの世界に行きたい」と思えたんだと思いますよ。
「知っている人だから、お願いしたら入れるんちゃうか?」という。

──

ああ、そうか。

米田さん

で、監督のところに挨拶に行ったんです。
「監督、どんな仕事でもええんで、お願いします」と。
そうしたら監督が、「悔いはないな?」とおっしゃったんで、
「はい」と答えたら、
「編集がいちばん勉強になるから編集に行け」
と。そこから俺の映画人生スタートよ。

──

中島監督、かっこいいですね。

米田さん

でも、俺はそのときすでに28才でしょ。
下っ端の弟子からスタートするには完全に出遅れているし、
ほとんどバイト状態の生活から始めたから、
年収は見事に3分の1に減った(笑)。
ただ、「ようやくこの世界に入れた」みたいなうれしさはあったよね。

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