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今回は、“京撮(京都撮影所)の顔”とも言われる業界の有名人、
山下義明さんにご登場いただきます。
合計52年という長い“京撮歴”を持ち、
北大路欣也さん、小林稔侍さん、船越英一郎さんなど
数々の俳優たちが厚い信頼を寄せているという山下義明さん。
2010年の第7回京都映画祭では、
「多くの俳優、スタッフの信頼を受け、京都の映画製作を支えた」
として、京都映画功労賞を受賞されています。

日本映画が華やかなりし頃の太秦や嵐山、
大部屋俳優・付き人時代の思い出から、
演技事務という仕事、信頼関係を育む独特の仕事観・人間観まで。
撮影所文化をリアルに伝える体験談を、どうぞお楽しみください。

山下義明さんプロフィール

──

さっそくですが、子ども時代のことから教えていただけますか?

山下さん

僕は嵯峨の生まれだから、小さいときから映画は身近だったんです。
小学校のとき、今はJR嵯峨嵐山駅がある北側に大きな屋敷があって、
その池で遊んでいたら、「こらー!」と怒られる。
後で考えてみると、それは阪妻さん(阪東妻三郎)の屋敷で、
あの方は阪妻さんご本人だったんですよ。

夏休みのラジオ体操を鹿王院の境内でやっていて、
終わったら嵐山の大堰川に泳ぎに行っていたんですけど、
東映の俳優さんたちも、よく泳いでいたみたい。
昔はプールがなかったから、渡月橋の辺りにみんな泳ぎに行ってたの。

通っていた嵯峨小学校の校庭で、
稲垣浩の監督の「忘れられた子等」という映画が撮られたこともありました。
子どもだから、なんやようわからんけども、
みんながわいわい楽しそうにしてるなあ、いいなあ、
と思って眺めてましたね。

山下さん

撮影はいろんなところで行われていました。
「今日は千恵蔵罧原堤に来てはる」とか
右太衛門が天龍寺に来るんやて」とか。
それを、友達とみんなでわーっと見に行くんです。
別に、映画が好きとか、その道に進みたいとかじゃなく、子どもの遊びね。

たしか11歳くらいのとき、東映のフィルム倉庫が火事になった。
東映は、僕の家から歩いて30分かかるんだけど、
当時は住宅が少なかったから、火事が見えるの。
「あ!東映が燃えてる!」と言って、野次馬だから走って見に行きました。

──

なんだか、戦後の古き佳き時代感がありますね。

山下さん

でもね、それはいい思い出ではあったけれども、
業界を目指すきっかけではないの。

きっかけはね、なんといってもジェームス・ディーンとの出会いなんです。
初めて観たのが17歳のときの『エデンの東』。
もう、すごい衝撃だった。「これや!」と思った。
すぐに『理由なき反抗』、『ジャイアンツ』も観て、
アンソニー・パーキンスとかポール・ニューマンとかも観るようになって、
映画の世界に憧れました。

──

洋画だったんですね。

山下さん

そう。で、役者になりたいと思うんだけど、両親は反対だったので、
地元の会社に勤めながら小さな劇団に通いました。
当時は、掃いて捨てるほど京都に劇団があったんです。

熱心に稽古していたから自信もつく。やっぱり本格的に目指したい。
それで、親に内緒で会社をやめてしまった。
運よく東映で演技者を募集していて、
撮影所の守衛さんをしていた同級生の親父さんに口をきいてもらって、
もぐり込みました。19歳のときです。

──

どうでしたか?憧れの世界は。

山下さん

憧れはね、3ヶ月で終わった(笑)
最初は、劇団で約1年半基礎を教わっていたから、
東映に入ったらすぐ役が付いて、仕事がもらえると思っていたわけ。
そんなことはない。3ヶ月経てば、中のシステムがわかるわけです。
先輩がいっぱいいるんだ、
役どころか、名前を覚えてもらうだけでも大変なんだってね(笑)


大部屋俳優時代の写真を出してもらった。いつも三枚目の役だったらしい。
なかなかイケメンだと思うのだが…(どうでしょう?)

山下さん

僕は実家が鹿王院の近くなのに、
川谷拓三さんや福本清三さんと、
花園で同じところに下宿していたこともありました。
そのときはね、四畳半に5、6人いたんです。

──

四畳半に5、6人!どうやって寝るんですか(笑)

山下さん

わかんないけど、なぜか5、6人いた(笑)。
僕と福ちゃん、拓ボンと、ほかに、わけわからん連中と。
福ちゃんは、借りているアパートがほかにもあったんですよ。
だけどよくこっち側に来ていました。

──

山下さんが初めて役をもらったのはいつだったのですか?

山下さん

入って半年くらい。高田浩吉さん主演の『女の城の用心棒』で、
台詞をもらって、アップも撮ってもらって。
あ、だから、役じゃなくて、仕出しですね。

──

半年って、早いですよね?

山下さん

僕は大部屋に入ってすぐに、
阿部九洲男さんの付き人をさせてもらっていたので、
「阿部さんとこのボン」で顔を覚えてもらえたんです。
それと、背が低いので丁稚(でっち)さんができる。
大監督の松田定次さんが、「丁稚さん、こっちいらっしゃい」と呼んでくれるの。
監督に呼ばれるというのは、ものすごくうれしかった。

──

付き人って、『蒲田行進曲』でのヤスみたいなものですか?

山下さん

そう、まさにあの世界で、
当時は、東映専属のスターさんに撮影所の専属俳優が付いて、
身の回りの世話をするというのがあったんです。
「お茶」って言われたらパッとお茶を運んで、
たばこを吸われるならササッとたばこを出す。
内弟子みたいなやつですね。

五社協定がなくなってからも、京撮では、
撮影所の中を熟知している人間が撮影所になれない俳優さんに付いて、
滞在中の世話をするというのがあるんですよ。
そうやって、俳優さんが芝居に集中できるようにするわけです。

──

そうですか。そういうのは、「撮影所システム」と言われる
製作体制の名残ですよね。

山下さん

そうだと思います。

阿部さんは、僕の身元保証人になってくださったりして、
本当にかわいがってくださいました。昭和37年か38年、
五社協定が崩れ、阿部さんの東映との専属契約が切れたときに、
「これからはひとりでやっていきなさい」と言われて
僕は付き人をやめるわけですけど、
それまでの2、3年、つまり、この世界に入ってから最初の数年間は、
阿部さんに育てていただいたんです。

──

山下さんは、そのあと、高倉健さんの付き人も
ご経験されますよね?次はそのあたりから聞かせてください。


俳優たちが準備や出番待ちをする俳優会館。
この一階、玄関から入ったところにある「演技センター」事務所が、山下さんの職場だ。
奥には、これまでの「撮影所の人々」で紹介してきた結髪室や衣裳室があり、
2階、3階は楽屋、4階に俳優たちが稽古をする道場がある。
いわば山下さんは、役者時代を含めて50年以上も、この会館で過ごしてきたことになるのだ。

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