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『科捜研の女』(テレビ朝日)のロケ現場にて。ロケ地は京都市西京極の総合運動公園。

──

Part.1で、日本電波映画での下積み時代の話を教えていただきました。
その後、東映にはどういう経緯で?

津田さん

日本電波映画は勢いがなくなって、1967年に倒産するんだけど、
その半年ほど前から、東映に機材を貸し出したりしていたんです。

東映は、1964年に東映京都テレビプロダクション(以下、「テレビプロ」)
を設立して本格的にテレビ映画を撮り始めた。
でも、当時のテレビプロには、シンクロできるキャメラがなかったんです。それで、
「電波さん、仕事があまりないんだったら、
空いているキャメラを貸してくれへんか」
ということで、僕がその機材管理担当で行ったんです。
そのうち、「フリーになって年間契約で来ないか」と誘われ、
東映に行くようになりました。

──

なるほど。当時はまだ、助手としてですよね。

津田さん

そうですね。日本電波ではセカンドフォーカスまでやっていたので、
フォーカスからスタートしたのかな。

──

フォーカスも大変な仕事ですよね。

津田さん

そりゃ、大変ですねえ。
「画がちょっと暗い」とか「赤っぽい」とかは、あとで多少は直せるけど、
ボケた画は直らないですから。
俳優さんの動きに合わせてピントを送らないといけないけど、
たとえば、俳優さんが少し前かがみになるだけで、3インチくらい違う。
そうすると、ピントも変わるんですよ。

勘がつかめないうちは、もう、焦りますよね。
すぐそこに俳優がいるのに、まだ奥にピントを置いていて、
「何してんねや、ボケとるやろ、アホ!」
とか怒られる。
で、もう一回やっても失敗するでしょ。
そうすると、やればやるほど、よけいにひどくなるんですよ。
もう、頭が真っ白になって、レンズの数字まで見えなくなって。
俳優さんが、NGが増えるほど頭が真っ白になって
台詞が出なくなるのと同じですよね。


キャメラからのびている白いものは、被写体との距離を測っているメジャー。
現場では助手が手際よく測り、その値を目安にしてピントを合わせる

津田さん

フォーカスにかぎらず、チーフ、それぞれの助手には、
立場に応じた仕事があって、職種が違うんですね。
それぞれがその職種のプロとして関わっているんです。

大まかに言うと、サードは機材のセッティング、セカンドはフォーカス、
チーフは露出や色温度の計測・セカンドへの指示。
ビデオ作品の撮影の場合は、サードがいることはあまりないけどね。

──

なるほど。それぞれが別の仕事。
「キャメラマンの助手」という括りで単純化してはいけない。

津田さん

そうですね。

──

津田さんは、テレビの黎明期から、
テレビ作品に関わっておられたということになりますよね。
その頃はまだ、どうしても映画のほうが上に見られていたのではないかと。

津田さん

そうです。テレビは「左遷されてくるところ」みたいな雰囲気がありました。

テレビプロは、東映本体とは別会社だったんだけど、
カメラの機材を準備する部屋は、同じだったんですね。
当時は本体で本編を3本くらい撮っていたから、
35ミリのミッチェルで整備室がいっぱいになるんですよ。
でも、僕らが使っているのは小さいキャメラ。

ある日、僕らが使うキャメラの整備をひととおり終えて、
休憩室で一服してから、「さあ、現場に行こう」と準備室に戻ったら、
キャメラがない。プチっですよ。頭にきて、

「小さくても俺らの命やろ!誰や、持っていったんわっ!」
(↑注:思い切り舌を巻くイメージで読んでください)

と叫んだら、本編のスタッフが、
「そんなところに置いとくのが悪いんじゃい」。

と軽く流す。まあ、相当に馬鹿にされてましたよ(笑)


東映京都撮影所の撮影準備室。取材時には若いスタッフがピント調整のチェックをしていた

──

でも、テレビが大ブレイクして。

津田さん

そう、立場が好転していくわけです。
やっぱり一番の傑作は、『新選組血風録』ですよね。
監督は河野寿一さん、脚本は結束信二さんの名コンビ。
泣けますよね、あれは、いま観ても。じーんとくる。

当時、河野さんはバリバリご活躍でしたからねえ。
河野さんの乗ったタクシーが見えたら、
所長以下、全員整列して待つんですよ。
それで、「監督、おはようございます!」って挨拶すると、「おう」とか言って、
格好よかったですねえ。
部屋でも、周りはみんな木製の固い椅子だけど、
河野さんだけちょっとバブリーなクッションの入った椅子に座ってました。

でも、体つきが大柄で強面(こわおもて)だし、
怖くて誰も近づかないですよ。近づくのは僕だけ。
「おはようございます、監督〜!」とか言うと、
「お前、えらそうに(笑)」と、からかわれて。

──

さすが!組での修行がいきてますね。

津田さん

だけど、当時、僕はまだフォーカスですからね(笑)
なのに、河野さんとは非常に親しくさせてもらっていたんです。
テレビ局の人たちとの食事会にも、
先輩のキャメラマンをさしおいて、一番ペイペイの僕が誘われる。
僕が機材の整理が終わるまで、待っていてくれましたからね。

──

それはすごい。河野さんの作品を、
キャメラマンとして担当されたことはあるんですか?

津田さん

いや、ないんですよ。チーフまでです。
河野さんの作品のほとんどは、先輩の木村誠司さんが撮っていました。
僕は、フォーカスからチーフまでずっと木村さんに付いていたので、
僕の親分みたいな人ですね。
ちょっと渡哲也さんの雰囲気がある、格好いい人でね、
いまは70歳を超えていらっしゃいますけど、いまでも格好いいですね。

──

当時は河野さんなど勢いのある監督たちで、
『燃えよ剣』をはじめとする名作テレビ時代劇が、どんどん作られるんですよね。

津田さん

そう。『遠山の金さん』とかね。
いまでも名作といわれるもののほとんどは、テレビプロで作ってきたんです。
だから、本編が減ってテレビをやらざるをえなくなってから
テレビ製作に関わった人たちとは違うという気持ちは、やっぱり少しありますよね。

──

「自分たちがテレビ時代劇の礎を築いたんだ」と。

津田さん

別に東映のためにやったわけではないけどね(笑)

──

はは(笑)。では次に、ようやく、一本立ちしてからのこと、
キャメラマンの仕事についてうかがっていきたいと思います。

津田さん

いまから本題? 長い前置きだよね(笑)

──

まあ、いいと思います(笑)


「科捜研の女」(テレビ朝日)のロケ現場にて、撮影の指示を出す津田さん。

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