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『科捜研の女』(テレビ朝日)のロケ現場にて。

今回はいよいよ、東映京都撮影所のベテランキャメラマン、
津田宗幸さんにせまります。
1960年代、映画からテレビへと人々の関心が移り、
その波に乗れなかった撮影所が閉鎖に追いやられるなかで、東映は、
撮影所に同居するかたちで誕生した「東映京都テレビプロダクション」が、
『新選組血風録』、『銭形平次』といった作品を次々にヒットさせます。
津田さんは、そのような時代から、
数々のテレビドラマ・時代劇に携わってきたキャメラマンです。

インタビューの前、助手を務める若い男性や周辺の人物から、
「昔は相当怖かったらしいです」「どうやら、あの筋との人とのお付き合いも…」
などと教えられ、緊張しながら迎えたインタビュー。始まったとたん、
「若い頃は組で修行してまして…」と津田さん。な、なんと、噂は本当だった?!
津田さんの個性を形成したともいえる、そんな組時代のお話を踏まえ、
キャメラの話や仕事への想い、津田さんの魅力をたっぷり紹介します。

津田宗幸さんプロフィール

──

今日はありがとうございます。
あの、先ほど「組で修行」とおっしゃったのがとても気になるので、
そのへんのお話から教えてもらってもいいですか?

津田さん

実家が大阪府の南の河内(かわち)にあって、
親父が鉄鋼商をしていたんですよ。

別にほんとのヤクザじゃなかったんですよ。
だけどね、親父がそういう方々に慕われてましてね。
小さい組の親分が、若い衆を
「おじき、面倒みてください」と言ってウチに連れてくるんです。
そんな若い衆が住み込みで働いているような実家で、
だから、食事のときも寝るときも、ずっと組の若い衆と一緒ですわ。

小学校の時は、当時は給食がなかったからみんな弁当を持っていくんだけど、
僕だけは、ウチの若い衆が、昼前に教室の窓をコンコンと叩いて、
「坊ちゃん、弁当持って参りました」って。
「やめてくれ」って思ってましたよ。

──

すごい世界ですね!

津田さん

それで、小さいときから、そんな若い衆や親父に
映画館によく連れて行ってもらっていました。
当時の娯楽は映画しかなかったから、いつも立ち見で超満員。
東映のチャンバラでは、東千代之介さん、萬屋錦之介さんなんかが
大活躍されていましたね。
スターが出てきたら、みんなが一斉に「ワァーッ!」と拍手喝采。
子どもながらに、「これは夢を与える仕事や」と思いました。


話し方も貫禄のある津田さん。インタビューは撮影部の控え室にて。

──

それでこの業界を志すんですか?

津田さん

そう。スターに憧れて、「役者になろう!」と思ったんです。
高校3年のとき、友達の親父さんが松竹京都でキャメラマンをしていて、
その人に「役者になりたいんです!」と頼み込んで、
松竹のニューフェイスを受けさせてもらったりしていました。
でも、「スターになれるのは、何万分の1や」とか言われて、
「現実は甘くないんやなあ」とか思って。

そんな感じでふらふらしてたら、親父に
「飛び出したままで、ええかげんなことして!」
と言われて、引き戻されるんです。

「何もわからんと、安易な気持ちでは世の中は渡れん!
1ヶ月でいいから、ウチに出入りしている組に入って修行しろ」

と。親父には、怖くて逆らえませんませんからね、「しゃあない」と思って、
そこで、修行というかたちで組に行くわけです。

──

なるほど。じゃあ、「組で修行」というのは、
いわゆる、行儀見習いみたいな。

津田さん

そう。行儀見習いですね。

──

組ではどういう修行をされたんですか?

津田さん

まず、目上の人に対しての言葉遣い。これはけっこう厳しく言われました。
それと、便所掃除ですね。
昔はトイレットペーパーの代わりに新聞紙を使ってたんですよ。
古新聞紙をはさみで切って、小さな箱の中に入れておく。
ものすごい人数が使うんで、1日に何回も便所に行っては掃除して、
新聞紙を切って、新しいのを下に入れていって。
毎日、毎日、新聞紙を切ってました(笑)

──

(聞き手、笑)…それで、修行は1ヶ月でやめるんですか?

津田さん

1ヶ月です。もう、そんな長くは、たまらんっす(笑)。
その後はもう一度太秦に来て、
日本電波映画という会社に拾ってもらいました。

撮影部の人に出会って、
「何もしなくていいから、とりあえず現場に付いて見ておけ」
と言われて付いていったんですね。
すると、テレビに出ていた俳優さんがいっぱいいて、
「この人も便所に行かはんねや〜」とか、新鮮な驚きですよね(笑)
何日間か見学させてもらっているうちに、
「やってみようかな」と思って、撮影部に入れてもらったんです。

──

なるほど。それから、今度は撮影部での修行が始まる。

津田さん

そうですね。まずはバッテリーを充電したり、三脚の準備をしたり。
昔は木材の三脚だったので、ロケから帰ると毎日のように油で磨いて、
すべりやすくしておかないといけなかったんです。終わったら、
油っぽいままではいけないので、油気がなくなるまで乾拭きする。
撮影の前も、先輩たちよりも先に行かないといけないんだけど、
30分前に行ったらもう来ている。めちゃめちゃ怒られたんで、
次の日は1時間前に行ったら、また来ていて、「遅いやないか」と言われる。
もう「これは完全にいやがらせや!」と思いましたよ。

そんなことが続くから、あるときプチッと切れてね
先輩たち5、6人を呼び出して、
太秦にある蚕ノ社の三柱鳥居のところで、総なめに(笑)

──

え?…殴ったんですか?

津田さん

自分と同じ立場の下積みの人間も数人いるんですね。
みんな、先輩とのあいだで、同じように悔しい思いをしていたんで、
「俺が(先輩に)言うたるわ」という感じです。
「これ以上、先輩たちに言われるだけというのは、もう我慢できん」と。
空手を習っていたこともあって、ケンカには自信ありましたからね。

──

すごい!実力行使に出たわけですか(笑)

津田さん

そう。そしたら、次の日からキャメラを触らせてもらえるようになりましたよ(笑)
「俺が見ておくから、お前、一回やってみろ」
とか言われて、いろいろ教えてくれる。
そうなったら、こっちはもう、ただただ
「先輩、申し訳ございませんでした。すみませんでした」と。

──

へええ。殴り合って、わかりあえる。いい時代ですねえ。

津田さん

でも、「手を出すのが早すぎたかな」という反省はあるけど。
撮影部に入って、わずか半年でしたから(笑)

──

ははは(笑)。作品としては、どんなものに携わっていたんですか?

津田さん

僕は、松山容子さんの『琴姫七変化』に最初に付いて、
『海の野郎ども』、『姿三四郎』とか。
あと、松竹の下請けで、映画も撮っていたんです。
印象的なのが、マキノ雅広さんの『男の顔は切り札』ですね。

──

名作ばかりですね。

津田さん

その当時の日本電波映画は勢いがあったんですよ。
東映がまだ映画しか撮ってなかった頃にテレビ作品を4、5本撮っていて、
お茶の間のみんながそれを食い入るように観ていた。

──

まさに、新しい時代のフロンティア的な仕事ですよね。
さらにその後、東映テレビプロでも、歴史的な名作に関わることになる。
次はそのあたりの話を聞かせてください。


『科捜研の女』(テレビ朝日)のロケ現場にて

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