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時代劇で最も大きな見せ場となるチャンバラシーン、「殺陣(たて)」。
その立ち回りを演じるすべての人の動きを決め、
迫力あるシーンを作り上げていくのが、
殺陣師と呼ばれる専門のスタッフです。
菅原俊夫さんは、スターたちが華やかさを誇った
昭和30年代の東映京都撮影所で、映画人生をスタート。

殺陣師デビュー後は、
「水戸黄門」や「影の軍団」シリーズをはじめ数々の作品で、
常識にとらわれない多彩なアクションシーンを作り上げてきました。
40年の実績がある今もなお、「原点に帰りたい」と話す菅原さん。
一作一作、全力で取り組む姿勢は、
映画ファンならずとも、学べることが多いはずです。
まずは、殺陣師としての基礎を築くことになった、役者時代の話から。

菅原俊夫さんプロフィール

──

最初は役者としてのスタートだったそうですが。

菅原さん

はい。東映京都では、
殺陣師は役者を経験しないとできないと代々言われていて、
僕の先輩も後輩も、みんな最初は役者でした。

殺陣師というのは、ご存知の通り、
アクションシーンや立ち回りの動きを付ける仕事。
動きを付けるといっても、殺陣は芝居だから、
どんなシチュエーションでの立ち回りなのか、
どうして戦うことになったのか、
監督はどういう世界を描きたいのか
そのときの役者の気持ちはどうなのか。
あらゆることを深く理解していないといけない。
単に刀を振り回せばいいっていうわけではないですからね。

となると、「役者を経験して現場を知って、
立ち回りができるようになってからじゃないと殺陣師はできない」
という考えが、東映京都にはあるんですよ。

──

「立ち回りの動きを付ける」について、
もう少し具体的に聞かせてもらえますか?

菅原さん

殺陣の動きは、台本には書かれていないのが常なんです。
『水戸黄門』のラスタチを例に挙げると、台本では、
「助、角が闘う。頃合いを見て印籠を出す」といった程度しか書かれていない。
その闘いのシーンや“頃合い”をどう作っていくか、
カット割りも考えながら役者の動きを決めていくのが、殺陣師の仕事です。

方法としては、殺陣師自身が最初に主役の立ち回りを演じてみせて、
順番にカラミの手順を決めていくやり方ですね。

ちなみに、よく驚かれるんですけど、
立ち回りや動きの指示は、撮影直前に行います。
「何日か前に動きを付けて役者に事前練習してもらう」わけではなく、
直前に指示して、テストをしたらすぐ本番です。

──

最初から殺陣師になりたかったのですか?

菅原さん

いや、役者でやっていくつもりだったし、
撮影所に来るようになって10年くらいは、無我夢中で役者の稽古をしていました。

──

どんな感じだったんでしょうか?

菅原さん

とにかく厳しかったですよ。
刀を振り下ろすだけの稽古を1ヶ月続けるとか、
道場をウサギ跳びで何往復もするとか。
挨拶ひとつ悪いだけで、木剣で尻を叩かれるような時代だった。
変な話だけど、トイレに行くのもね、当時のトイレは和式でしょ。
でも、足も腰も痛くてしゃがみこめない。
それくらい体をつかっていたんです。

その頃は専属演技者だけでも400人いたんです。
そのうち、斬られ役でも、スターのカラミができるのはベテランだけ。
残るほとんどは、スターの周囲を取り巻いて走り回るだけの人とか、
寝ているだけ、要するに死体役ね。


俳優会館の4階にある道場。数年前に改装して新しくなったが、
専属俳優たちがしのぎを削って稽古に励んでいた時代の雰囲気が感じられる

菅原さん

いま「日本一の斬られ役」として有名になった福本清三と、
亡くなった川谷拓三、そして僕の3人は、
だいたい同じ時期に撮影所に入った仲間でね。
3人とも、自分で言うのもなんやけど、わりと上手かったほうで、自信はある。
なのに、右太衛門先生千恵蔵先生にからめる人間は
なじみの人と決まってる。それで、その人が斬られたら、
「お前、代わりにそこで寝とけ」と言われる。つまり、死体役。
悔しくてしょうがなかったですよ。
「いつか御大にからんでやる!」ってずっと思っていました。
俺、あつかましいから、実現したのはわりと早かったですけどね(笑)

──

殺陣師になるきっかけは何だったんでしょう?

菅原さん

10年くらい役者をしていて、そこそこセリフのある役ももらえて、
ひばりさん(美空ひばり)や欣也さん(北大路欣也)、
錦之介さん(萬屋錦之介)といった人たちと
仕事をさせてもらえるようになっていた。
だから、自分としては役者でやっていくつもりだったんですね。

でも、会社が、映画からテレビの量産体制にシフトするから、
殺陣師を増やす必要があるという。
僕はみんなに「菅(すが)チン」と呼ばれていたんですが、ある日、上から、
「『菅チンを殺陣師に』という推薦が多いんや。頼むから、引き受けてくれんか?」
と言われたんです。

それでね、どうしようかとひばりさんに相談したら、

「やめなさい!」

という。

「今までせっかく苦労して役者の道を這い上がってきたのに、
そんなに簡単に捨てられるわけがないでしょ。やめなさい」

つまり、「いまさら裏方にまわったら、
将来後悔することがあるんじゃないか」
ということですよね。それだけ僕も役者に打ち込んでいたしね。

でも、その後もしょっちゅう、「殺陣師になってくれ」と上から言われる。
それで、欣也さんにも少し話をしてみたら、

「ひばりさんが言ったのもわかるけど、殺陣師になるという手もあるで。
俺は菅チンに殺陣を付けてもらいたいなあ」と。

それから何ヶ月か経って、もう一度ひばりさんに相談しました。

「上から、どうしても『殺陣師になってくれ』と言われてます」。

「そう。じゃあ、やりなさい。
そのかわり、いろいろなところからオファーが来る殺陣師になりなさい。
声がかからない殺陣師になるくらいなら、今のうちにやめなさい」。

そんなわけで、「やれるだけやろう」と誓って殺陣師になるんですが、
ひばりさんね、僕にまだ何の経験もないうちから、
「これから私の舞台の殺陣は、全部、菅チンが付けなさい」
と言うんです。そして、実際に全部の舞台で殺陣を付けさせてもらいました。

ひばりさんは、芸に厳しく、実に愛情深い人でした。
殺陣師として成長するまで見届けてくれた、といいますかねえ。
だから僕にとってひばりさんは、一番の恩人なんですよ。


俳優会館の3階にある殺陣師の控え室。
菅原さんにとっては、殺陣師40年の思い出が詰まった部屋だ。

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