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シーンにぴったりと合う背景をつくり上げ、
監督の演出を、俳優の演技を影で支えるのが美術監督の仕事。
戦艦大和の実寸大セットが話題を呼んだ『男たちの大和/YAMATO』や、
公開中のオープンセットが人気を集める『桜田門外ノ変』など、
数々の話題作を手がけてきた美術監督・松宮敏之さん。
それらのセットを造った経験、助手時代の思い出などなど、
訊きはじめたら止まらなくなってしまったエピソードの数々を、
たっぷりご紹介します。
まずは、美術のお仕事と助手時代のお話から。

松宮敏之さんプロフィール

──

今日はお会いできて光栄です。
お訊きしたいことがありすぎて困っているのですが、

松宮さん

なんでもどうぞ(笑)

──

ありがとうございます。
まず、美術が大体どういうことをする仕事かということを、
素人にもわかるようにお訊きしたいと思っていて。
松宮さんは、東映京都撮影所専属のスタッフ、
そういう認識でいいですか?

松宮さん

まあ、そうですね。雇用形態はフリーランスですけど、
東映京都撮影所の美術課デザイン室で
もう30年くらい、働かせてもらっています。
昔は大勢の人が社員だったらしいですけど、
時代が変わりまして、今はそういう形で働いている人がほとんどですね。

──

でも、ここが職場で、その伝統はしっかり受け継いでいる

松宮さん

そうですね。

──

映画の美術というと、素人は、
「大道具と小道具?」くらいにしか想像できないのですが、
具体的にどういう仕事になるのでしょう?

松宮さん

ひとくちに「映画美術」と言っても、
その内容は非常に幅広いんです。
映画ですから、ドラマなり、事件が描かれますよね。
その場所に関わるすべてが
美術の仕事の範疇(はんちゅう)になります。

そのドラマがどういう状況のもとで行われていて、
どんな場所にどんな建物があって、どんな道具があるのか。
そういうことをトータルに決めて、作っていくのが美術の仕事なんです。

──

どんな役割の人がいるのでしょうか?

松宮さん

図面を描いたり、空間の全体的なイメージを決めていくのがデザイナー。
いわゆる美術監督です。
そして、そのイメージをもとに実際にセットを作っていく人が
それぞれの分野にいます。

──

それぞれの分野?

松宮さん

はい。たとえば、建て込みをしていく「建込」班、
扉や障子などを作る「建具」班、
襖を作ったり、背景に使うよう板に何枚も紙を貼っていく「張物」班、
木を鉄に見せたり石に見せたりしていく「塗装」班、
空などの背景を描く「背景」…

──

たくさんありますね。

松宮さん

そうです。ほかに、植木を用意する「造園」、
俳優が持つ持ち道具を用意したり、
セットの装飾をしたりする「装飾」などがいます。


松宮さんが所属するデザイン室の前には、各分野の人たちの勤務カードが置かれている

──

松宮さんの場合はどういう形でスタートしたのですか?

松宮さん

僕は美術監督の下について、いわゆる美術助手という形でスタートしました。
それは各班の調整役…と言ったら格好いいですけど、
要は「なんでも屋」みたいなもんで、ほとんど全部やるんですよ。

小道具さんのところに行けば、責任者と一緒に走り回って、
持ち道具とか出道具とか、必要なものを探してくるし、
大工さんのところに行けば、棟梁がいるんでその手伝いをする。
塗装さんのところでは、職人が塗っている横で「汚し」をしたり、
造園さんのところでは、
たとえば桜の木に、満開に見えるように造花を付けたり(笑)
ほんまに、なんでも屋なんです。

──

ほんまに「なんでも」ですね。

松宮さん

そうです。でもね、この経験って大きいんですよ。
こっちが指示するのではなしに、その班のベテランの方々から
「あの監督やったらこっちのほうが好きなんじゃないか?」
と提案をもらったりすることも多いので、ほんとうに勉強になります。
美術助手って、いわば、舞台をつくるすべての分野に関われますしね。


小道具倉庫を案内する松宮さん。行灯だけでもすごい数だ。

──

松宮さんは、東映に入られた当時は
どういう作品に関わっていらっしゃったんですか?

松宮さん

深作欣二監督の『魔界転生』です。
あの作品で一番最初に助手をさせてもらいました。

──

ああ、たしか沢田研二さんの…?

松宮さん

そうです、ジュリー(沢田研二)さんと千葉真一さんが主役の。
あれ、あやしいというか、摩訶不思議な世界観の映画だったでしょ。
天草四郎時貞を筆頭に歴史上の人物が死の世界から次々とよみがえるという。
だから、担当した美術監督の井川徳道さんも、
かなり怖くあやしげな、幽玄な感じを出されたかったみたいでね、
火をたくさん使ったんですよ。

──

火?

松宮さん

そうです。最初に、島原の乱の焼け跡に
虐殺された死体が転がっているシーンがあるんですけど、
ところどころにパラパラと火が燃えている。
クライマックスも、江戸城炎上の中での立ち回りシーンで、
火の中で襖が燃え上がったり、大きな柱が倒れたりするんです。

なので僕、新米だったというのもあったんでしょうけど、
火を付けることばっかりやっていたような思い出がありますね。
それこそ、撮影が終わってから、
当時僕は風呂なしアパートに住んでいたから銭湯に行くんですけど、
体を洗ったらすすでお湯が真っ黒けで、
周りの人に嫌がられました。ははは(笑)

──

はー、そんなに!それが初めての撮影現場だったんですね。

松宮さん

はい。その頃は深夜の撮影も多くて、眠いんですよ。
火を付けて、セットの裏に隠れているうちに半分寝てましたね。
ハッと気づいたら本番が終わっていたみたいな(笑)
ほんとにそんな感じで仕事していましたね。

──

そういえば、「深作組は<深夜作業組>と呼ばれていた」と、
何かで読んだ記憶があります。好んで深夜に撮影するんだ、って。

松宮さん

そうそう(笑)。深夜が撮影の絶好調で、逆に午前中はあまり動かない(笑)
僕、その翌年に公開された『蒲田行進曲』も
手伝わせていただいたんです。
それも深作監督の作品で、すごく遅くまで撮影していて。

──

そうか、松宮さんが東映に入られたのは1981年だから、
ちょうどその頃なんですね。深作さんは、
どんな端役の演技でも、粘りに粘って撮る人だったとか。

松宮さん

そうですね。だから端役の俳優さんがすごくがんばる。

スタッフにも、非常に大切にしてくださって、
思い出すのはやっぱり『蒲田行進曲』のときですよね。

僕は小道具を手伝っていて、
小さな物ひとつでも、あれやこれやとたくさん準備をして
現場に持っていくわけです。

でも、現場では、紆余曲折して結局それを使わなかったり、
別のものが必要になってまた走りまわったり、
ということがしょっちゅう起こる。
入ったばかりのペイペイだった僕は、そういう状況だと、
準備したことが全部ムダになった、僕の判断は失敗だった
と思ってしまうわけです。

──

はい。わかります。

松宮さん

でもね、深作監督は、おっしゃったんですよ。
「いろいろなものを見せてくれることによって初めて映画が撮れるんだ。
だから、ムダなように見えてちっともムダじゃない」って。

ほんとにちらっと、そうおっしゃってくださって。
学校を卒業したばかりの若造に、ですよ。
そのときは、
「ああ、見てくださってるんや。
こりゃ、がんばらなあかんな」
って、思いましたよね。

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